【強烈にネタバレ注意】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||の感想と考察
ネタバレしますよ?
感想言いますよ?
。。他記事見た感じ、
結構、ユニークな感性っぽい?
他と全然違うレビューします。
だからついでに生き方について話しますよ?
いいですか?
ネタバレですよ??
エヴァハラですよ??
閲覧注意ですよ???
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
ですからね!!
ネタバレするんだぞ?
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||ですからね??
本当にいいんですか??
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。。
あ
い
うー
さて。
これだけ言えば大丈夫でしょう。
始めましょうか。
あくまで、これは僕個人の感想で、感じ方の一つですけどね。
**
全部自己責任ですよ?もう
**
<目次>
↑今、観てきました。
ぼくの感想は..
よくわかりません。
内容が、じゃないです。今までのエヴァンゲリオンは、内容がよく分からないってことは多々ありましたが、そういうんじゃないです。
見終わった後に、ぼくの心に去来した"ナニカ"は、今まで映画で感じた何かとは全く違うもので、ぼくには良くわかりません。最高に褒め言葉として、映画で感じたことのないナニカが、ぼくの胸のやってきました。映画館にいたので、正直、めっちゃ戸惑ってます。まあ最終的には、ですけど。途中まではフツーに映画の感想もあったんです。ぼくの素直な感想を以下に書きます。
エヴァを観ていたはずなのに、
ぼくは映画館からどこかに飛び立ってて
気付いたら、どこかに着陸してました。
そこが何処かわかりません。
エヴァは「カオスと闇」から「宇宙」になりました。庵野監督はたぶん、宇宙のなかで自分の座標を見付けたんでしょうね。ぼくはまだ見付けられてません。
呪縛と解放、共存。
この呪縛はエヴァであり、男女であり、人であり、過去であり、リアルであり。。そんな呪縛から解放されて、リアル?いや人生?命と共存するーーその道を庵野監督は、旧劇場版から現在まで見出していて、旧劇場版の「誰も救われないリアル」というメッセージからナニカを見出した個人として、それを表現したかったのかもしれません。
不思議な感覚で、面白かった?謎は解けたと聞かれれば、「それはそう」なんですけどーー考察とか謎ってエンタメであって、この劇場版の表面の一つであって、ぼくの胸に去来したのはそういう類のものじゃなかったんです。
最初、終わった時の感想は
なんて言うか、無、です。
はい、
意味不明です。
ストーリーが意味不明なエヴァンゲリオンは「さらば」しました。でもエヴァンゲリオンは「宇宙」になったので、やっぱり意味不明です。そういう意味では「こんにちは、エヴァンゲリオン」。
「いやいやナニソレ」と思うかもしれませんが、一番正確にぼくの感覚を表現できています。これから以下で、深堀りで「宇宙」の言語化を試みたいと思います。勿論、そんなことは不可能なんですが。。
それから先に断っておくと、上で散々書いたわりに基本的にストーリー的なネタバレはあまりないと思います。ありますけどね??ただそういう期待している人はごめんなさい。それでもコレは多分、本質的にはネタバレになり得ると思うので物凄く断っておいただけです。ネタバレも含むのは間違ってないですし。
今、ぼくが最も言いたいことは。
これは映画であっても、人生ではない。
何を当たり前のことを言ってるんだと思いますが、コレを最初に書いておいた方が良いかと思いました。そして多分、あなたがこの言葉から連想したことも、多分、実際にぼくが抱えていることとは違うと思います。ぼくにとってそういう作品でした。
ざっくり内容としては、今までのエヴァのらしい、でも内容は比較的分かりやすい今風の映画でした。内容や心理もあるので、意味不明感はちょっとマイルド。
ストーリーは、最後まで一度も対決したことのなかった「シンジとゲンドウ」つまり「子と父」の理解とすれ違いの解消の物語と思います。エヴァ旧劇場版では「すまなかったな、シンジ」と自己完結していたものを「父と子」の対話によって解消するストーリーだと思います。勿論、僕のレビューというか、感じたことであって、解釈の一つです。
ストーリーネタバレ終わり。
途中までは凄く映画らしく面白さがあって、映画としてシンプルに好印象でした。多分、エンタメとしてキチンと「さらば、エヴァンゲリオン」してました。でもでも終盤に向けてぼくの感覚は一変していきます。あの「おめでとう!」とトラウマを想起させる「ん??」が来た後に、でも、ぼくのココロは明確に何処かに着地しました。当時とは違います。不思議です。ぼくがこの映画に明確に感じたテーマは
①男女の共存
②人生との対面
え
特に①?エヴァで?これが理由で、本研究関連記事のカテゴリー「研究ライフ」で書こうと思い至った次第です、はい。
①男女の共存
エヴァ全体的にそういう印象があったのですが、普通は男女の配役を逆にすると思うんです。エヴァンゲリオン全体を通して「ヒロインはシンジ」じゃないかと思うんです。シンジは「心の闇」に囚われたお姫様で、周囲の女性達がそのシンジ助けだす物語と言ってもある程度の理解は得られるんじゃないかなって思います。
その側面から明確にストーリーが帰結した印象です。
以下に、炎上しそうなぼくの「男女平等」の在り方の考えと、エヴァンゲリオンの結末の一つの解釈を書いていきます。
ぼくは「女性軽視」への批判って"男女平等じゃない"と思ってるんです。少し昔、そしておそらく今も女性の地位というのはずっと低くて不平等で、そんな悪しき風習を撤廃するための活動として「アンチ女性軽視」は必要だと思います。でもその根幹にあるのが「男女平等」なのか「女性軽視への反発」なのかというココロの部分をとても疑問視しちゃうんです。
それを一番感じたのは「嫁」という言葉への反発です。
今の時代に則していない、女性軽視だ、という発言を見るたびに僕は「男女平等」の難しさを痛感します。漢字の成り立ちは歴史です。それ自体に罪はなく、シンプルな過去にあった事実です。女性が軽んじられていた(いる)という事実は、今、芽吹いている価値観ではとても悲しいことです。でも、日本語がそうであるように、日本は「大切なものは後ろに隠すこと」を美徳とする歴史があります。過去のソレは女性を大切にするココロの現れだったはずです。だから、良い女で「嫁:ヨメ」なんです。
確かに、その歴史的背景は、現代の価値観にマッチしてません。ですが、今、新しい漢字はもう作らないですよね?そんな状況で、過去のその価値観を現在に引っ張り出して「嫁」という表現を差別だと言われる度に思うんです。
過去の風習から、「男女平等という新時代に変えよう」という人が、なんで「過去の風習:歴史」にそんなに固執してしまうんだろう。平等にしたいんです。不平等に苛立っちゃダメなんです。そう個人として思ってます。
それに「嫁」の言葉に歴史的背景を重ねる人は実際は殆どいないと思うんです。小学生で将来の夢を調査したら、きっと「お嫁さん」とは言う人いても「専業主婦/奥さん」とは多分いません。旦那さん、も出る未来が来たら嬉しいです。また、ぼくのような根暗陰キャは「〇〇は俺の嫁!」とは言っても、「俺の妻!」なんて恐れ多くて言えません。
現代で「嫁」に重なってる新しいイメージは、「可愛らしい」「若々しい」みたいな瑞々しい感性だと思うんです。それを歴史的背景、漢字の成り立ちから不適切だって言うなら、「夫」や「妻」、ぼくらの苗字だって不適切です。それじゃただの反発心で「平等」を求めるココロじゃないんじゃないでしょうか?
本質はどこにあるんだろう。
エヴァ、の今回のテーマ①は
「対話」と「相互理解」です。
ぼくの感じた事として、ですよ?
そして、
平等でなくて、共存、でした。
一緒に理解して、一緒に解決していくのが、正しい形なんじゃないでしょうか。弾圧や押付じゃ解決できない事なんじゃないでしょうか。本劇場版、途中でいつもの「人類補完計画:再生と破壊」があるんですけど、そこで描かれるヒトの像、全部"女性"なんです。女性崇拝を匂わせる表現が絶妙な塩梅で散りばめられているのに、物語の結末は、それでもやっぱり「対話と相互理解」なんです。共存なんです。
エヴァンゲリオンのヒロインは「シンジ」で、シンジを助けるのは全員女性です(カヲルくんはずっと女性扱いでOK)。その助けられた「シンジ」が皆を「女性」を助けていくのがエヴァンゲリオンです。どっちが先とかじゃなくて、どっちが大切なんじゃなくて、持ちつ持たれつーーその根幹を成す「対話」の難しさと"美しさ"をぼくは感じたんだと思います。
これが、今回のエヴァンゲリオン劇場版で、映画の感想を持てなかった一つ目の理由で、「これは映画であっても、人生ではない」と自分に言い聞かせる理由です。なぜなら、ぼくらはまだココにまだ至ってないからです。コレが正しいのかもまだ分からないからです。ただそのカタチにひとつの感動を得たのは事実です。ぼくは、ソレを僕自身のストーリーで見つけていきたいです。
②人生との対面
これを明確に掬い上げられる理由は、秀逸な映像表現や構成にあると思うので、細かくは言いません。見たら感じられるかもしれません。感じる必要なんてないかもしれません。
さらばエヴァンゲリオンしたのは、
僕であり、
庵野監督であり、
これを見た全ての人かもしれません。
エヴァンゲリオンという作品は「元祖セカイ系」です。セカイ系は「世界を巻き込んでまで誰かを救う物語」なんですけど、エヴァンゲリオンっていっつも誰も救われないですよねww。当時の旧劇場版のメッセージもソレに近かったと思うんです。あのネガティブな過去、旧劇ショックから、僕らは大人になって、庵野総監督も歳を重ねてーーエヴァンゲリオンは誰かを救うのか?今後こそ救ってくれるのか?なんて期待を持っている人も多いですよね。きっと。
あ。
これネタバレんなるじゃん。
やっぱり本記事はネタバレ記事です。
今回の最後のエヴァ、「救われたのか?」という答えはNOである、そして、YESである、とぼくは思うんですよね。「誰もやっぱり救われてない」気がするのに凄くポジティブ..とは少し違いますね..宮沢賢治のぼくの大好きな詩にこの気持ちをピッタリ表現できる言葉があるので、それを含めて書き直します
誰も救われないかもしれないけど、
誰もが救われたのかもしれないけど、
ああ。いつだって、
未来圏からは、透明で清涼な風が吹いているんだ
そんなことに気付きました。
この結論に辿り着く部分は、ストーリー性というより描写が秀逸で、ここは完全に映像芸術だと思います。技法が、とかだけじゃないんですよね、「想い」と「願い」が掛け算になっててヤバい。。
思い出したらまた観たくなってきた。今までの「エヴァよく分からん!もう一回観よ」じゃなくて「分かってるのにもう一回感じたいんだ」って思います。美術館一周して、またある絵画で立ち止まるのと同じ感覚です。
こういうのをエモいって言うんでしょうか?
で、人生でぼくらは「嬉しいこと」も「悲しいこと」もあります。それは事実ですが捉え方の一側面でしかないと思うんです。何が結末に来ても、そこには「ナニか守りたい想い」があって、でも結末に納得できなくて、だから頭がごちゃごちゃになってーーそんなのが人生なのかもしれません。
本劇場版エヴァンゲリオンでも「色んな人の”何かしたい”想いと苦悩と結末」があります。たぶん、ストーリー結末としては「0から1になって、0に戻った物語」でしょう。でも最初の0から次の0になったとき、そこに居るあなたは同じじゃないんです。
あの「悲しい結末」にだって意味があるはずなんです。
人生は一つ繋がりで、リセット、なんていらない。
「良いこともあれば、悪いこともある」
じゃない、とぼくは思うんです。
良いことには悪い面もあって
悪いことには良い面もあって
良いことは悪いことの先にあって
悪いことは良いことの先にあって
そんな
「見えないもの」と「見えるもの」が重なり合って、人生なんです。
ぼくたちは、どう生きるのか?
その答えは。。
それから1ヶ月経って
結局、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||、3回観に行ってきました。
1回目の僕に残ったのは、虚無、で
2回目の僕は、素直に面白い映画だと思って
3回目で、初めて泣きました。。
え?
逆に?
僕、2回目見終わった後に、「アニメ⇒旧劇場版⇒新劇場版: 序: 破: Q」と観てから、再チャレンジしたんですよね。で、気付いたんですけど。。
やっぱりアレ、アニメじゃねーですわ。
前より明確に言語化できるようになったんですけど。。
エヴァンゲリオンシリーズって、内容的に、いろんな登場人物がトラウマを持っていて、いろんな登場人物の環境に問題点があって、それが浮き彫りになるアニメだと思うんです。
そのトラウマ/問題点って言うのは間違いない「リアル」です。
なので、僕達の内面に、共感できるトラウマ/問題点があると、自分の中からそれが浮き彫りになって、登場人物たちの苦悩と一緒に育っていくんです。。
で、旧劇場版で「気持ち悪い」になる。
全然、そのトラウマ/問題点が解消しないままなんです。それを新劇場版: 序: 破: Qで、僕達は繰り返して..
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||で「行こう」になる。
*「気持ち悪い」「行こう」は双方の最後のフレーズ
解消するんですよね、遂に。
だから気付くと、自分の中から深層心理、あるいは知覚していたトラウマ/問題点が浮き彫りになって、リアルとイマジナリーがごっちゃになった場所で膨れ上がって.. 最後にキレイに洗い流されるんです。
さらば、トラウマ/問題点
(ルビは"エヴァンゲリオン")
だから、3回目のシン・エヴァンゲリオン劇場版:||で泣いたのは、ストーリーじゃないんですよね。これ、京アニのヴァイオレット・エヴァーガーデン観た時も思ったんですけど、元来、アニメーションはエンタメじゃなくて芸術なんですよね。それを思い出しました。
アニメのストーリー展開で泣いたことはあったんですけど、このエヴァで泣いたのは、アニメーションというか、映像構成というか、その芸術性で、命が洗濯されて泣いたんだと思います。
*ちなみにヴァイオレット・エヴァーガーデンは、もうただヴァイオレットちゃん泣けば、もうぼくは泣く。人は、誰かが泣いていたら悲しくなる生き物なんだって当時思いました
洗濯物って、きっとたぶん、汚れ落とされるのに、痛くて過酷な洗浄過程経てるんですよね。。エヴァはそれです。エヴァはアニメから洗濯機になりました。
お風呂じゃなくて、エヴァが命の洗濯でした。
そういうわけで
何のアニメが面白いか?
と訊ねられて、ぼくが今後「エヴァ」を紹介することはないでしょう。
でも。
漠然と心が淀んだ時、ぼくはエヴァシリーズを観て、自分の中の問題と向き合って、半アンリアル化して、シン・エヴァで「さよなら⇒行こう」することにします。何度でもそれをするでしょう。
いい作品だったな。
ありがとう、おめでとう庵野監督。